『-NAOMI-』 


「やあ、…一曲聴いてくれるかい?」 
ステージの上に腰掛けた、アコースティックギターを抱えた犬が言った。 
この閉ざされた村の中で、彼のいるこの空間は、僕にとって唯一の安らぎの地だった。 

彼の名はとたけけ。毎週土曜日に、博物館地下の喫茶店に現れるギター弾きだ。 
その姿は他の住人達と同様、人間ではなく白い犬だったが、僕は彼にだけは浅いとも深いとも言えぬ信頼を寄せていた。 
何故かはよくわからない。彼よりもずっと多い回数顔を合わせている狸などは、未だに信用できないというのに。 
彼が心底音楽を愛しているらしいという事が、そちらに夢中で僕に危害を与えることはあるまいという無意識的な確信に繋がり、そこから信頼感が芽生えたのだろうか。 
ライブは夜の8時に始まる。彼はいつもその30分前からステージの上にスタンバっていて、スタートの時間がやって来るのを待っている。 
土曜の夜になると、僕は狂った村から聖域に逃げ込むように喫茶店へと走る。以前は彼がライブを始める8時まで家で待っていたが、最近では我慢できずに8時前に駆け込むことが多くなった。 
彼がライブを始めるまでの時間、僕は喫茶店のカウンタ席に腰掛けて、マスターにコーヒーを一杯入れてもらう。 
村にきてすぐの頃と比べると、僕はこのマスターのことも少し信頼するようになっていた。 
最初は彼の入れてくれるコーヒーすらも疑ってかかり、飲むふりをして床に流したと酷いまねもしていた。 
が、何度も通ううちに彼は僕の姿を見ると「ああ、また来てくれた」と言っているかのような柔らかい表情をするようになり、次第に喫茶店を開くことは小さい頃からの夢だったと語ってくれるようになった。 
マスターは行くたびに違う味のコーヒーを入れてくれる。それらの味は確かに良く、毒を盛られているという感じも全くしない。おそらく彼もまた、とたけけと同じように、自分の店とコーヒーを愛しているのだろう。 
普段はマスターがコーヒーを湧かして僕のやって来るのを待ち、土曜日にはとたけけが音楽を奏でてくれる。 
いつの間にか、この喫茶店は僕にとって、かけがえのない場所となっていた。 



「それじゃ…聞いてくれ。『おととい』」 マスターにピジョンミルク入りの甘いコーヒーを入れてもらった後、僕はいつものようにとたけけに曲を聴かせてもらうことにした。 僕の方から曲を指定することは、あまり無い。選曲はいつもいつもおまかせだ。こう言っては何だが僕は彼の持ち歌のタイトルをあまり知らなかったし、彼が僕のために選んでくれる曲を聴きたいと思っていたからだ。 ジャン、と彼がギターの弦を鳴らす。ステージ正面の椅子に腰掛けて、僕は軽く足を揺らしながら、彼の曲にじっと聴き入った。 ギターの旋律と彼の歌声が美しい調子に絡み合う。彼が何語で歌っているのか、僕にはよくわからなかった。たまに日本語のように聞こえることもあったが、何と言っているのかよくわからない場合の方が多かった。 僕にとっては、歌詞がわからない方が都合が良かった。わからないものはわからないと割り切れる。歌詞の内容を気にすることなく、曲を聴くことに集中できるからだ。 ───しかし、今日は違った。 「♪なおみ…… なおみ…… 待って……」 僕は顔を上げた。 とたけけは、静かな旋律を奏でながら歌っていた。 「♪なおみ…… なおみ…… 待って……」 僕にかまわず、彼は歌うのを続けた。何度も何度も、そのフレーズを繰り返す。明らかに、それは日本語だった。 僕の頭に一つの疑問が浮かんだ。───なおみって……誰だ? 「♪なおみ…… なおみ…… なおみ……」 僕の聞き違いだろうか、歌うとたけけの声色は、随分悲しそうなものに聞こえた。曲調も静かで、癒し系というよりはどちらかというと哀愁を誘うものである。 …そういえば、彼の曲にはたまにそういうものがある。以前聴かせてもらった『けけバラッド』や『にだんざか』等、どこか物悲しい、涙を誘うような、そんな曲が─── ボロロン、とギターの弦が一弾きされ、曲が終わった。僕ははっと我に返り、ステージの上の彼を見つめた。 「聴いてくれてありがとう」 彼はそう言って微笑んだ。 ああ、今日はこれで終わりだ。僕は椅子から立ち上がった。彼が聴かせてくれるのは、毎晩一曲だけである。だからこそこの時間は僕にとって貴重なのだ。 また聴かせてねと笑いかけ、喫茶店の出口の方へ足を運ぶ。が、出入り口のすぐ横のマスターのカウンタの場所まで来て、僕はぴたりと足を止めた。 「……なおみは」 口を動かしながら、僕はそっととたけけの方に振り返った。 とたけけは僕の方に目は向けない。ただじっと、膝の上に抱えた自分のギターを見つめている。 「…なおみはどうしたの?」 気になる衝動を抑えきれず、僕は尋ねた。 僕は今ではもう結構長くこの村にいるつもりだったが、そんな名前の住人は聞いたことがない。 とたけけはやはり顔を上げなかった。椅子に座って俯いたまま、動こうとしない。 しばしの沈黙があった。 数秒の空白の後、それを破ったのはとたけけではなく僕の方だった。僕はとたけけの方に顔だけではなく体も向けて、ゆっくりともう一度───彼に尋ねた。 「………どう『なった』の?」
とたけけが顔を上げた。 彼の黒い瞳と目が合い、僕は思わず一瞬身震いした。とたけけは僕の顔をじっと見つめ、その後ふっと口元に柔らかな笑みを浮かべた。 「……また来てくれよな」 静かに、僕に向かって言う。 「待ってるからさ……」 ……待ってるから。 寂しそうなその言葉が、僕の頭の中にエコーした。僕は彼に返事を返すことなく、再び出入り口の方に体を向けた。 前の週やそのまた前の週とは違い、僕の頭の中は疑問で溢れていた。憶測でしかない考えが、次々と溢れては消えていく。 彼は『なおみ』を待っていたのだろうか。 毎週僕に聴かせてくれるギター。『なおみ』にも聴かせていたのだろうか。 では、『なおみ』は一体どこに? ───ぼそり。 歩くのも忘れて突っ立ったまま考え込んでいた僕の横で、カウンタの内側のマスターが、突然小さな声で───何か呟いた。 「え、何?」 「あ、いえ…」 僕に声をかけられ、マスターは驚いたのか一瞬びくりと肩を振るわせた。 「何でも……」 慌てたように首を横に振りながら、いつものような呟き言葉で僕に言う。 「…何でもないですから………。」 それだけ言って、マスターは再び手に持ったカップを熱心に磨き始めた。僕は彼の横顔をじっと見つめる。 マスターは何か知っているのだろうか。 そういえば、僕は毎週彼のライブを聴きにきているが、ほかの客を見たことは一度もない。 僕がこの村に来る前からとたけけがここでライブを行っていたのだとしたら、その曲は誰が聴いていたんだろう。 僕がやって来るまで、彼のギターの音色はマスター一人だけの特権だったのだろうか。 ………それとも──? ───また来てくれよな。 ───待ってるからさ。 ───待ってるからさ……… 一段一段、博物館に続く階段をゆっくりあがっていく僕の頭の中では、とたけけの寂しそうな声が、延々と響いていた……… ■TOP